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2006年2月 3日 (金)

グレンコーの虐殺(1)

アイルランド系サッカークラブがスコットランドにできた理由を書いたら、わたしの中に巣くっていた歴史小僧が暴れ出したようだ(笑)。しばらく、スコットランドの歴史のことをサッカーとゲール語の合間に書いていこうと思う。まずは、スコットランドの歴史の中でも悲劇として知られるグレンコーの虐殺を取り上げる(たぶん2回ぐらいにわけて)。

スコットランドとイングランドの形式的な連合国家は、スコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として即位した1603年に始まる。日本では徳川家康が江戸幕府を開いた年である。当時のイングランドは、スコットランドが敵でなくなることが重要であり、その統治など基本的にはなおざりであったため、おらんとこのジェームズ6世はなんだかイングランドではジェームズ1世と呼ばれとるそうだなんて不満や、最近王様はちっともエディンバラに来んのう~などという不満はあったものの、ハイランドでタータンやゲール語を禁じられるわけでもなく、氏族制度を揺るがすようなおふれもなく、スコットランドにとっても、この後の世紀のことを考えれば、まだましな時代だった。

変化点は17世紀から18世紀に変わろうとしていたときだった。震源地はロンドン。すっかりプロテスタントになった英国だったが、1685年に即位したジェームズ7世(イングランドでは2世)は、カトリック教徒だったしそれを隠そうとしなかった。また、従来重用されていたプロテスタントの政治家を廃し、カトリック教徒を重用したため混乱と反発が起きた。そこで、ジェームズを追い出して、オランダのオレンジ公ウィリアムに嫁いでいたジェームズの娘メアリ(メアリ2世)とオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)を共同統治の王として、英国に招くという事態が1689年におきた(これが名誉革命)。1694年にはメアリも亡くなり、ウィリアム3世の単独統治となっている。

自分たちの統治を揺るがないものにしたいウィリアムは、ハイランドの氏族長達に対しても、忠誠を誓う宣誓書の提出を1692年1月1日までに届けるようにという通達をその前年の8月27日にだした。なぜ、そんな命令がでたかと言えば、廃位されたジェームズを支持するハイランド氏族達(これが元々のジャコバイト)の小規模な反乱が散発したからだ。ただし、そのジェームズは1690年アイルランドで蜂起したジャコバイトに合流したものの結局は破れた。こんなことがあったから、ウィリアムはわざわざ、忠誠を確認しようとしたのである。

氏族長達は最初は渋っていたが、仕方なく宣誓書を提出し始めた。それは、武力報復をおそれたからである。当時マクドナルド氏族長は、その氏族の中のマキーアン一族がつとめていて、その名をアラスター・マキーアン(Alastair MacIain)といった。彼は、期日の前である12月31日に、吹雪をついてフォート・ウィリアムに提出にやってきた。本来なら、彼は期日に間に合っていたはずだった。しかし、フォートウィリアムの知事は、自分にはその宣誓を受ける権限がないことを彼に知らせ、はるか南のインヴァラレイにいるコリン・キャンベル卿(あのキャンベルね)がつとめるアーガイル郡長に提出せねばならないと伝えた(インヴァラレイには、いまでもキャンベル家の壮大で美しい城がある)。その知事は、アラスターがちゃんと期日にきたというキャンベル宛の手紙を彼に持たせている。現代では、自動車を使えば数時間で移動可能な距離であるが、雪の中、徒歩と馬では期日に間に合うわけもない。アラスターは3日かかって移動したが、そこでさらに3日待たねばならなかった。というのも、コリン・キャンベル卿が留守だったからだ。不本意ではあったがコリン卿はちゃんと宣誓を1月6日に受けて、宣誓書はここに署名・提出されることになった。

しかし、逆らえばどうなるか?という見せしめが必要だと感じたウィリアムとそのとりまきは非常な決断を下した。

そして時は約1ヶ月後の2月2日。この時点では詳しい使命を知らないロバート・キャンベル率いるキャンベル一族の兵が約120人(130人とする説もある)で、アラスター・マキーアンを族長とするマクドナルド一族が住むグレンコーを訪ねた。当時のグレンコーの人口は400人程度とされている。キャンベルとマクドナルドは親戚同士でもあった。ハイランド流の村をあげての歓待の宴は10日続いた。

そんな中12日の夜には、ドラモンドという大将がグレンコーに到着している。彼は、政府最高司令官ダンカンソンが、ロバート・キャンベルに与えた命令書を持っていた。
  グレンコー村の反逆者 マクドナルド一族
  70歳以下はみな剣にかけよ。
  古狐(アラスター・マキーアン)とその息子は絶対にのがしてはならない。
  全ての男をのがしてはならない。
  午前5時きっかりに実行せよ(ちゃんと見ているぞ)。
  これは、わたしダンカンソンの命令ではなく王命である。
  わかっているだろうが失敗は許さん。
ひえ~となるような恐ろしい命令書である。そして、13日早朝、キャンベル一族の兵が襲いかかり、38人の男を殺した。その他に、雪の中に逃げた人々が凍死したり、家を焼かれた時に焼死したりして、女性と子供合計で40名が亡くなったそうだ。合計で78名が亡くなったということは人口の2割が失われたことになる。

しかし、命令の一部は失敗に終わっていて、アラスター・マキーアンこそベッドで殺されたものの、彼の妻、息子そして孫は、脱出に成功したし、他の多くの男達も逃げるのに成功した。

そして、この事件はウィリアムの意図とは違った展開をみせることになる。忠誠を誓わないといけない王と思わせることが重要だったはずなのだが、
 慈悲の心がなく信用のならない王がイングランドにやってきた。
 やはり、スコットランドには独自の王が必要なのではないか、
という思いがハイランドを中心に残ってしまったのである。
つまり、ジャコバイトは敗れたばかりだというのに、なんとか復活できないかと願う土壌がすでにここに生まれたのだ。

この事件があった10年後の1702年にウィリアムは亡くなり、王位はジェームズの娘(メアリの妹)アン女王に移った。ウィリアムとメアリは不仲で子供がなく、はやくからアンへの王位継承が決まっていた。この後に、1707年にスコットランド議会は廃止され、スコットランドは名実ともに独立を失った。アン女王は、同君連合最後の君主にして、連合王国最初の君主となるのである。

続く(ホントか(笑)?)
次回は、氏族の当時の暮らしにこの事件の背景をみる、後世のこともちょびっと考える。

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